BOUQUET FRAGRANCE’ S BLOG 2

競走馬の話題を中心に紹介します。

Mr.C.B. ミスターシービー(みすたあしいびいぃ) 種牡馬生活編・2

1986年(昭和61年)から、1999年(平成11年)11月の種付けシーズンで引退するまで、種牡馬として繫養生活を送った、Mr.C.B. ミスターシービーは、これまでに多くの、産駒を輩出した、これらは、Mr.C.B.CHILDREN(ミスターシービーチルドレン)として、競走馬として中央・地方の競馬場で生活を共にしたのである。

 

1987年の秋・ライバルで、皇帝馬のシンボリルドルフ SYMBOLI RUDOLFが、種牡馬入りし、繫養生活を送り始めると、ミスターシービー Mr.C.B.は、種牡馬としての活動は、冬の時代を迎えるのである。

 

Mr.C.B. ミスターシービーと同じ、1980年生まれで、同世代のシュアンス SHUANCE(不出走)と、種付け配合されて、日高振興局管内・新冠郡新冠町の川島牧場で、1頭の仔馬・シュアンスの1988が生まれ、三冠馬だった、ミスターシービー Mr.C.B.の血も流れた産駒であり、後に、(株)シャコ-に購買され、シャコ-グレイド SHAKO GLADEの競争名で、中央競馬で45戦2勝の成績を残した、日本ダービーでは、シャコ-グレイドとトウカイテイオーの、ミスターシービーチルドレンとシンボリルドルフチルドレンの対戦があり、三冠達成を果たした馬の産駒が激突戦を繰り広げたことは、有名な競争として語り草になっている。

 

平成3年(1991年)には、社台ファーム・早来牧場(→社台スタリオンステーション・早来)から、同じ、北海道・日高振興局管内の、静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)のレックススタッドに移動した、Mr.C.B. ミスターシービーは、隣の、浦河郡浦河町民の歓迎を受けての、新種牡馬生活を送り始める。

 

ここでも、スイートミトゥーナ・ワイルドバッハ・サンヨウアロー(不出走ではあったが、アサティスとの間に生まれた、ウイングアローの母としても知られる。)を生産した。

中でも、アサティスの間に生まれた、サンヨウアローの仔・ウイングアローは、第1回・ジャパンカップ・ダートを制覇した、鹿毛サラブレッドある。

 

それ以降、Mr.C.B.ミスターシービーの種付け能力が低下したりしていたので、1999年(平成11年)・秋の種付けシーズンをもって、Mr.C.B. ミスターシービーは、1986年(昭和61年)2月の供用開始以来長く行われてきた、種牡馬生活を引退することが、発表されたのである。

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、1991年から繫養生活を送った、レックススタッド種牡馬厩舎を退厩、馬運車に乗り、長く種牡馬として生活してきた、雄大な大地の北海道を後に、馬運車で功労馬として新生活を送る、千葉県・成田市・本城の、千明牧場・三里塚分譲へレックススタッドを後にした。

(函館港~青森港間はフェリーで車両航送された。)

 

グッドルッキングホース Mr.C.B. ミスターシービーは、2000年1月から、千葉県・成田市・本城の、千明牧場・三里塚分場で、功労馬として、母・C.B.QUEEN シービークインと、グルームドウターと一緒に、余生を送り、同年12月15日・蹄葉炎による衰弱のため、牡・20歳(人間に例えれば、60~70歳前後)で逝去されるまで、20年間の生涯を全うし、種牡馬として繫養生活を開始した、1986年(昭和61年)には、顕彰馬にも選出されたとのことである。

 

僕の心の中では、競走馬として、活躍した頃の、Mr.C.B. ミスターシービーがいる、今後共、天国で安らかに眠っている、Mr.C.B. ミスターシービーを見守っていきたい。

 

グッドルッキングホース・Mr.C.B. ミスターシービーの、更なるご冥福ををお祈りする。

(終)

Mr.C.B. ミスターシービー(みすたあしいびいぃ)種牡馬生活編・1

1985年10月6日・あいにくの雨の降る中、東京競馬場で行われた、Mr.C.B. ミスターシービーの引退式には、1984年10月28日に同場で行われた、第90回・秋の天皇賞で2着のテュデナムキングの追撃をものとせず、1分59秒3のレコードタイムで優勝、四冠を達成すると共に、完全復活を果たした時の、ゼッケン番号・13番で登場、多くの競馬ファンに見送られて、ミスターシービー Mr.C.B.は、3年間過ごした、競走馬生活に終止符を打ったのである。

北海道・日高山脈に抱かれた、日高振興局管内・浦河郡浦河町の岡本牧場で、千明牧場の名義により、父・トウショウボーイ 母・シービークインの仔として生まれた、シービークインの一を血統名に持った、Mr.C.B. ミスターシービー

 

千明牧場で生まれた男馬という意味を持ち、千明牧場を代表する馬になってほしいという意味合いから、Mr. ミスターの称号を贈ったことから命名された、ミスターシービー Mr.C.B.!

 

19年ぶりに三冠達成を果たすなど、15戦8勝の成績を残した、黒鹿毛サラブレッドで、野性の檀雄児・ミスターシービーでありながら、次世代の三冠馬 皇帝馬・シンボリルドルフ SYMBOLI RUDOLFを倒すことが出来ないまま、競争生活に終止符を打ち、ターフを去った、Mr.C.B. ミスターシービー

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、種牡馬となり、北海道での、第2の馬生を送ることになる。

 

美浦トレーニングセンター松山康久厩舎。

 

10月6日に東京競馬場で行われた、引退式を終えて、出張厩舎に戻った、ミスターシービー Mr.C.B.!

 

1982年(昭和57年)4月の入厩依頼、3年半過ごしてきた、ミスターシービーは、種牡馬生活を送るため、美浦トレーニングセンター松山康久厩舎に戻った後、疲れを癒しては、過ごしたのである。

Mr.C.B.「ブルルルルルルルル!」

ミスターシービーは、大きい鼻息を鳴らした。

 

美浦トレーニングセンターでの最後の日。

Mr.C.B.「ヒヒ~ン!」

 

ミスターシービーは、大きい雄たけびでいなないた。

 

長い、競走馬としての、生活をしてきた、ミスターシービーは、黒鹿毛の美しい馬体を、揺らして、リラックスをして来た。

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、北海道・浦河の大地に抱かれて育った、黒鹿毛の馬である。

 

ニンジンが嫌いという、Mr.C.B. ミスターシービーの競争生活時代の2年目の時(1983年)の秋・第44回・菊花賞(11月13日・京都競馬場)で、シンザン以来19年ぶりに三冠達成を果たしていて、繫殖牝馬として生活を送り、この年に繫殖牝馬を引退した、母・シービークイン C.B.QUEENに勝利の雄たけびを鳴き続けた。

その時、テレビ・ラジオの実況中継の放送で流れた言葉が、怪物・ミスターシービー、お前は怪物だ!とか、大地が弾んでミスターシービーだ、の言葉が出たのである。

それも、想い出の話になりつつある。

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、美浦トレーニングセンターでの調教後、汗を吸い取るため、砂浴びをして汗を取ったのである。

放牧番場で、ミスターシービーは、鬣を揺らし、顔を上げ下げしては、自由な生活をしていたのである。

 

Mr.C.B.「フー!」

 

ミスターシービーは、気持ちいい息を吹きかけてやったのである。

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、私生活でも、大きくて臭い緑色のうんこを落として体を整えて行く馬である。

Mr.C.B.「ヒヒヒヒヒヒ~ン!」

ミスターシービーは、浦河の大地を想い出しながら、鋭い声でいななく馬、これが、ミスターシービーである。

Mr.C.B.「ヒヒ~ン、ブルルルルルルルル!」

その頃・Mr.C.B. ミスターシービーの所属管理厩舎の、美浦トレーニングセンター松山康久調教師は、グッドルッキングホース・Mr.C.B. ミスターシービーの登録抹消願いを提出するため、東京都・港区・西新橋にある、日本中央競馬会・本部を訪れ、トウショウボーイを父に、シービークインを母に持つ、ミスターシービーシービークインの一)の抹消願を提出、受理されたのである。

 

いよいよ、Mr.C.B. ミスターシービーが、美浦トレーニングセンターと別れる時がきた。

 

松山康久厩舎には、馬運車が着き、1982年(昭和57年)4月に入厩して以来、長く過ごした、Mr.C.B. ミスターシービーは、スタッフの人に送られて、馬運車に乗り込んだのである。

Mr.C.B.「ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン!」

 

ミスターシービーは、鋭い雄たけびでいななきを鳴らしたのである。

 

11月28日(登録抹消の日)・Mr..C.B. ミスターシービーは、長く在厩した、美浦トレーニングセンター松山康久厩舎を出発、北海道・胆振総合振興局管内・勇払郡早来町(現・安平町)・早来源武276番地にある、社台ファーム・早来牧場(→社台スタリオンステーション・早来)へ二度と帰らぬ長い輸送の旅(青森港~函館港間はフェリーを利用)についたのである。

 

Mr.C.B.「ブルルルルルルルル!」

Mr.C.B.「ファ~~~~~~~~~~~~!」

Mr.C.B.「フ~!」

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、馬運車の中であくびをしたのである。

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、気持ちよく眠りにつき、黒鹿毛の馬体を休めたのである。

 

1985年12月・社台ファーム・早来牧場(→社台スタリオンステーション・早来)

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、美浦トレセンから、長い旅の末、繫養先の社台ファーム・早来牧場(→社台スタリオンステーション・早来)に到着、馬運車を降り、着地検査を受けた後、種牡馬厩舎の、「ミスターシービー Mr.C.B. 牡 毛色・黒鹿毛」の馬房に入り、長い馬運車での移動を終えて、疲れを癒しました。

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、社台ファーム・早来牧場(→社台スタリオンステーション・早来)での、新生活を始めたのである。

 

Mr.C.B.「ヒヒ~ン、パカパカ。」

 

Mr.C.B.「パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ。」

 

Mr.C.B.「パカッ。」

 

Mr.C.B.「ヒヒ~ン、ヒヒ~ン、ヒヒ~ン、ヒヒ~ン、ヒヒ~ン!」

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、大きく、鋭い雄たけびでいななきたのである。

 

Mr.C.B.「ムフ、ムフ、ムフ、ムフ!」

 

Mr.C.B.「ウ~~~~~~~~~~~~!」

Mr.C.B.「ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト!」

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、大きく、緑色の臭いうんこ(💩)を落としてやった。

 

Mr.C.B.「ブルルルルルルルル、ブルルルルルルルル!」

 

雄大な北海道の大地で、種牡馬として、Mr.C.B. ミスターシービーは、活動を始める。

 

Mr.C.B.「ヒヒ~ン!」

 

1986年(昭和61年)2月、ミスターシービーは、種牡馬としてスタリオンパレード・1986に初めて登場し、お披露目をした後、この年から種牡馬として供用を開始するに至った。

 

Mr.C.B. ミスターシービーの生産地・日高地方の牧場から、種付けの申し込みの電話がジャンジャンなり始め、社台ファーム・早来牧場で新種牡馬として、供用を開始した、Mr.C.B. ミスターシービーには、繁殖牝馬となった牝馬たちが日高振興局管内の各町から相次いで殺到したのだ。

 

種付け場には、繁殖牝馬となった牝馬たちが日高振興局管内の、新冠町・浦河町などの各町の牧場から来ていて、順次・Mr.C.B. ミスターシービーを配合種牡馬として種付けをこなしたのである。

 

種付け配合終了後の、Mr.C.B. ミスターシービーは、放牧場に移動し、大きい蹄を鳴らしては、牧草の生える放牧場を駆け回った。

 

Mr.C.B.「ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ!」

 

Mr.C.B.「バシャ~~~~~~~~~~~~~~~!」

 

Mr.C.B.「ジャ~~~~~~~~~~~~!」

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、大きく気持ちいい緑色のおしっこ(尿)を出したのである。

 

種牡馬厩舎に戻った、Mr.C.B. ミスターシービーは、餌を食み、大きい緑色のうんちを出しては、臭いうんちの匂いを嗅いだのである。

 

Mr.C.B.「ヒヒ~ン!」

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、大きい嘶きを鳴らして、黒鹿毛の男馬であることをアピールし、そして、ごろんと横たわって、眠りにつき、夢を見たの尾である。

 

ミスターシービーは、1987年(昭和62年)には、初めての産駒を出産し、ミスターシービーチルドレンとして、ミスターシービー産駒の幼年生活を、日高地方の牧場で送り始めたのであり、第1号産駒が、コックピット(操縦席・英)の競争名で、中央競馬に、初めての、Mr.C.B. ミスターシービー産駒の競走馬デビューを果たしているのである。

種牡馬生活編・2へ続く。)

スティンガー Stinger 27歳で逝去される、サンデーサイレンスの後継繁殖牝馬。

サンデーサイレンスレガシーオブストレングスの仔の鹿毛馬で、1998年度の応援馬として、阪神3歳牝馬ステークス【現・阪神ジュベナイルフィリーズ)などで優勝するなどとして活躍、その後・2017年に用途変更されるまで、11年間・繫殖牝馬として送った、鹿毛のおてんば娘の女の子の馬・スティンガー Stinger(レガシーオブストレングスの1996)が、昨日・繫養先の社台ブルーグラスファームで老衰のため、牝・27歳で亡くなったことが、社台ブルーグラスファームから、日本中央競馬会に入った連絡で判明した。

 

1996年5月15日・北海道石狩振興局管内の千歳市・東丘にある、社台ファームで、レガシーオブストレングスの1996として生まれた、スティンガー₌Stingerは、吉田晃哉氏・他 7名の所有馬として、美浦藤沢和雄厩舎(当時)に入厩し、1998年に競走馬として、東京競馬場新馬戦(現・メイクデビュー)で1着となり、初勝利を挙げた牝馬サラブレッドで、同年の12月6日・阪神競馬場で行われた、阪神3歳牝馬ステークス(現・阪神ジュベナイルフィリーズ)に出走し、2着のエイシンレマーズに、2馬身差をつけて優勝し、赤松賞を合わせれば、3連勝で、この年の最優秀3歳牝馬(現・2歳牝馬)に選出されたのです。

2000年の春には、京王杯スプリングカップに出走して優勝した他、2001年の同カップを連破するなど、スティンガーは、競走馬として活躍しました。

 

2002年の高松宮記念中京競馬場)の3着を最後に、現役を引退した、スティンガー Stingerは、繁殖牝馬として千歳市・東丘の社台ファームで繫養生活を開始し、2017年に用途変更されるまで、11頭のサラブレッドの母としていい仔馬を産んだのです。

 

繫殖牝馬として活躍し、2017年に引退した、スティンガー Stingerは、北海道・日高振興局管内・沙流郡日高町の社台ブルーグラスファーム(日高ブルーグラスファーム)で、余生を送っていましたが、昨日・老衰のため牝・27歳で逝去されたとのことです。

 

最初は、応援競走馬として、現役で活躍し、後に繁殖牝馬として繫養生活を送った、サンデーサイレンスレガシーオブストレングスの仔・スティンガー Stinger。

 

27年の生涯を全うした、鹿毛のおてんば女の子の馬・スティンガー Stingerのご冥福をお祈りすると共に、心からお悔やみ申し上げます。

 

スティンガー Stinger、27年の生涯・お疲れ様でした、どうぞ、安らかに眠って下さい。

 

Mr.C.B. ミスターシービー(みすたあしいびいぃ)7

1983年11月13日・京都競馬場

 

伏見区・淀にある、京都競馬場は、全国にある、日本中央競馬会所有の競馬場では、2周するコース(3000m・3200m)の重賞競走が二鞍(菊花賞天皇賞(春))行われることで知られていて、ここで、第44回菊花賞が、第11競走として行われたのである。

 

皐月賞中山競馬場)・東京優駿大競争(日本ダービー 東京競馬場)と制覇してきた、Mr.C.B. ミスターシービーにとって、三冠競争の最終関門に当たる、菊花賞は、セントライトシンザンと達成して来た、三冠馬に輝く最後の挑戦競争、Mr.C.B. ミスターシービーは、ゼッケン番号・9番での出走となる。

実は、三冠を達成した競走馬も、1964年(昭和39年)のシンザン(Shinzan)以来、19年間、三冠達成した馬がいない状態が続いていて、Mr.C.B. ミスターシービーが、果たして、三冠馬に輝けるのか、期待したい一頭である。

 

前走・トライアルの、京都新聞杯に参戦した、Mr.C.B. ミスターシービーは、夏風邪の為か、カツラギエースに敗れて、通算で2回目の敗戦を帰した、今回、Mr.C.B. ミスターシービーは、巻き返して、勝利させることが出来るのか、注目の競争に、望むことになる。

 

前々走・東京競馬場で行われた、第50回・日本ダービーを制覇し、二冠を達成した、Mr.C.B. ミスターシービー、グッドルッキングホースとしてのプライドにかけて、三冠達成にむけて、走り続ける。

馬名・Mr.C.B. ミスターシービー(千明牧場で生まれた男馬・英)は、京都新聞杯に次いで、2回目の京都競馬場本馬場であり、サラブレッドマーチに乗って行進する。

 

秋が過ぎて、冬も近い11月中旬とはいえ、グッドルッキングホース Mr.C.B.(ミスターシービー)を見ようという競馬ファン京都競馬場に来ていて、ゼッケン番号・9番で、単枠指定馬としての出走となる、ミスターシービー(Mr.C.B.)の馬券を購入しようと、ファンたちは、勝馬投票券発売所に行って、ミスターシービー単勝馬券を中心に購入していて、前日発売の分も合わせると、多くの競馬ファンの購入した勝馬投票券の多くは、Mr.C.B. ミスターシービーに投票したとのことである。

グッドルッキングホース ミスターシービー Mr.C.B. 三冠達成の最終関門・第44回 菊花賞のゲートインが、ファンファーレと共に、始まる。

すでに、輪乗りを行われている、京都競馬場、これから第44回・菊花賞の枠入りがファンファーレと共に、始まるのである。

グッドルッキングホース Mr.C.B. ミスターシービーは、ゼッケン9番を付けており、1番人気に支持されていた。

Mr.C.B.ミスターシービーは、9番ゲートに誘導を受け、収まるのである。

グッドルッキングホース・Mr.C.B. ミスターシービーの三冠競争の最終関門・菊花賞の幕が開ける。

15時45分・ゲートオープンと同時に、臺44回・菊花賞のスタートが切られたのである。

グッドルッキングホース Mr.C.B. ミスターシービーは、出遅れて、後方からのスタートとなった、ミスターシービーは、前へ行かせようと、走り出して行く。

1週目の正面スタンド前を、ミスターシービーは、大きい蹄をたてながら、ゴールイン板を通過、2周目の、第1コーナーのカーブを曲がりきる。

1980年(昭和55年)4月7日・北海道・日高振興局管内・浦河郡浦河町の、岡本牧場で、千明牧場の名義により、シービークインの一として生まれた、グッドルッキングホース Mr.C.B. ミスターシービーは、800mの標識を通過し、3コーナーのカーブを過ぎて、4コーナーの直線コースに入り、ぐんぐんと伸びて行ったのである。

Mr.C.B.「パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ。」

 

Mr.C.B.「ヒヒ~ン、ヒヒ~ン、ヒヒ~ン、ヒヒ~ン、ヒヒ~ン、ヒヒ~ン、ヒヒ~ン、ヒヒ~ン、ヒヒヒヒヒヒヒヒ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ン!」

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、北海道・浦河の大地を想い出しながら、鋭い雄たけびでいななく馬である。

Mr.C.B.「ヒヒ~ン!」

 

Mr.C.B.「ブルルルルルルルル、ブルルルルルルルル!」

 

ミスターシービーは、大きく荒い鼻息を鳴らす馬、これが Mr.C.B. ミスターシービーである。

 

ミスターシービーは、トウショウボーイを父に、シービークインを母に持つ馬である。

繁殖牝馬として繫養生活を送った、母・シービークイン C.B.QUEENは、グッドルッキングホース Mr.C.B. ミスターシービー以外は、不受胎となっていて、この年で繁殖牝馬を引退、千明牧場・三里塚分場(千葉県・成田市・本城)で、グルームドウターと一緒に。功労馬となり、2004年に牝・33歳で逝去されるまで、同場で余生を送った。

Mr.C.B.「ブルルルルルルルル、フー!」

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、気持ちいい息を吹きかけてやる馬である。

 

ミスターシービーは、浦河の牧草で育まれた、顔立ちのよい馬であり、シンザン以来、19年ぶりの三冠馬となり、達成された。

この後・美浦に戻った、Mr.C.B. ミスターシービーだが、蹄を痛めたので、有馬記念を回避すると共に、4歳馬での競争生活を終えていて、1983年(昭和58年)の優駿賞年度代表馬及び最優秀父内国産馬に選出されたのである。

ロサンゼルスオリンピック夏季オリンピック・ロサンゼルス大会)の年の1984年(昭和59年)は、Mr.C.B. ミスターシービーが、牡・5歳(現・牡 4歳】になって、東京競馬場で行われた、毎日王冠から復帰するも、カツラギエースの2着に終わり、3連敗となった。

同年10月28日・同じく東京競馬場で2000mに短縮して行われた、第90回・秋の天皇賞では、Mr.C.B. ミスターシービーは、ゼッケン番号・13番で出走、2着のテュデナムキングの追撃をものとせず、1分59秒のレコードタイムで優勝、四冠を達成すると共に、完全復活をアピールした、これが、Mr.C.B. ミスターシービーの、最後の勝利競争となったことは、想像もつかない事である。

グッドルッキングホース・Mr.C.B. ミスターシービーは、ジャパンカップにゼッケン・1番で出走するも、カツラギエースに敗れ、連敗を帰した他、グランプリ・有馬記念でも、参戦して完全復活をアピールする機会の1つだったが、皇帝馬・シンボリルドルフに敗れて2連敗、牡・6歳(現・牡・5歳)の1985年(昭和60年)には、サンケイ大阪杯(現・産経大阪杯)に駒を進めたが、ステートジャガーの2着に敗退した。

 

1985年(昭和60年)4月29日・京都競馬場で行われた、第91回・春の天皇賞に、五冠馬達成と復活をかけて参戦したが、3200mという、2周の長丁場故に、一旦は先頭に立つも、スズカコバンにかわされて、ズルズル失速し、第4コーナーから直線コースに入ったところで、次世代の三冠馬・皇帝馬 シンボリルドルフにかわされて失速し、5着で競争を終えた、それが、Mr.C.B. ミスターシービーの最後の戦いとなったのである。

 

15戦して8勝の成績を収めながら、次世代の三冠馬 皇帝馬・シンボリルドルフを倒せないまま、骨膜炎という軽い炎症が引き金となり、馬主の丸沼温泉ホテル・千明牧場・所属厩舎の、松山康久厩舎(美浦トレーニングセンター)と、グッドルッキングホース・Mr.C.B. ミスターシービーの今後の対応について、協議した結果、惜しくも現役を引退することを決め、1985年(昭和60年)8月28日に発表されたのである。

 

1985年(昭和60年)10月6日 グッドルッキングホース・Mr.C.B. ミスターシービーの引退式が、あいにくの雨の降る中、デビュー地の東京競馬場で行われ、Mr.C.B. ミスターシービー(父・トウショウボーイ 母・シービークイン 毛色・黒鹿毛 牡・6歳 血統名・シービークインの一)が、同場で行われた、第90回・秋の天皇賞で、2着のテュデナムキングの追撃をものとせず、1分59秒のレコードタイムで優勝、四冠を達成すると共に、完全復活を果たした時の、ゼッケン番号・13番で登場、競馬ファンが惜しまれつつターフを去っていく、グッドルッキングホース・Mr.C.B. ミスターシービーを追い込み馬として花開く姿を見つめつつ、現役競走馬生活に終止符を打ったのである。

 

グッドルッキングホース・Mr.C.B. ミスターシービーは、1986年(昭和61年) 牡・7歳(現・牡 6歳)の時に、北海道・胆振総合振興局管内・勇払郡早来町【現・安平町】・早来源武276番地にある、社台ファーム・早来牧場【現・社台スタリオンステーション】に種牡馬としてスタッドインし、途中、同・日高振興局管内・静内郡静内町【現・日高郡新ひだか町】のレックススタッドに移動しながら、シャコ-グレイド・スイートミトゥーナ・ワイルドバッハなど、たくさんのMr.C.B.CHILDREN ミスターシービーチルドレンを出し、1999年(平成11年)秋の種付けシーズンをもって、種牡馬を引退するまで、繫養生活を送り、2000年1月から、千葉県・成田市・本城にある、千明牧場・三里塚分場で同年12月15日・蹄葉炎による衰弱の為、牡・20歳(人間に例えれば、60歳~70歳前後)で死亡するまで、功労馬として、余生を送った様である。

ぼくの心の中には、競走馬時代のMr.C.B. ミスターシービーがいる。

 

今後も天国で眠っている、グッドルッキングホース・McC.B. ミスターシービーを見守っていこうと思うのである。

 

グッドルッキングホース・MrC.B. ミスターシービーの更なるご冥福をお祈りしたい。

 

 

Mr.C.B. ミスターシービー(みすたあしいびいぃ)6

皐月賞制覇して、三冠競争の臺二関門の、第50回・日本ダービーに、駒を進めてきた、ミスターシービー(Mr.C.B.)

グッドルッキングホースであり、二代目でもある、ミスターシービー  Mr.C.B.が参戦する、4歳馬(現・3歳馬)が対象の、重賞競走 日本ダービーだが、実は、ブライオリーパークの仔として生まれた、初代が、昭和12年(1937年)4月29日に行われた第6回に出走させた経緯があるが、この時は、日本ダービー馬史上初、初の牝馬として優勝した、ヒサトモの10着に敗れたことがある、千明牧場・代表 千明大作さんの父・賢治さんの時である。

千明牧場では、翌年(1938年・昭和13年)には、第7回となった、日本ダービーをスゲヌマで優勝し初の優勝馬に輝いた他、戦後・1963年(昭和38年)の、臺30回(5月26日)では、メイズイを出走させ、見事に優勝馬に輝いているのである。

 

1983年5月29日・日本ダービーの当日、東京競馬場は、単枠指定馬になった、Mr.C.B. ミスターシービーを一目見ようと、大勢の競馬ファンらで集まり、正面スタンドには探勝馬券を購入した競馬ファンで一杯になった。

 

二代目で、ミスターシービー二世号の異名を取り、グッドルッキングホースの異名とっていた、Mr.C.B. ミスターシービーは、二冠を達成できるのか、ゼッケン12番を付けて、パドックに現れた。

Mr.C.B.「カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ。」

当時・単勝1番人気に支持された、Mr.C.B. ミスターシービーという、グッドルッキングホースは、12番のゼッケンをつけて参戦した。

 

ジョッキーが騎乗し、パドックを周回した、Mr.C.B. ミスターシービーは、東京競馬場の地下馬道を通り、同場の本馬場に入場する。

 

東京競馬場本馬場に入場した、Mr.C.B. ミスターシービー

 

千明牧場で生まれた男馬という意味を持つ、Mr.C.B. ミスターシービーは12番のゼッケンをつけて、姿を現したのである。

 

おとなしく歩めた後、ミスターシービーは、返し馬に入り、パカッ、パカッ、パカッ。と走っては、馬場の感触を確かめていたのである。

 

 ミスターシービーは、栄光の、日本ダービー・優勝馬に輝いた。

ミスターシービーは、引き上げて、地下馬道を通り、1着のほうに入ったのである。

 

その頃・日本ダービーの終えた東京競馬場の着順掲示板には、1着・12番 Mr.C.B. ミスターシービー単枠指定馬)の数字は出たものの、競争は、キクノフラッシュの進路が狭くなり、長い審議になったのであり、結果が待たれていました。

 

長い審議の結果、1万円以下の過怠金(競馬用語で罰金の事。)が、3名で、6月30日までの騎乗停止処分が1名という裁定が下されたとの事である。

Mr.C.B. ミスターシービーは臺50回目の日本ダービー勝馬になったのである。

 

Mr.C.B.「ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン!」

 

Mr.C.B. ミスターシービーは検体採取所に、尿を採取するため、来たのである。

 

Mr.C.B.「ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ!」

 

Mr.C.B.「バシャ~~~~~~~~~~~~~~~~~!」

 

Mr.C.B.「ジャ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!」

 

ミスターシービーは大きいおしっこ(尿)を出してやった。

 

ミスターシービーは、東京競馬場本馬場に入り、口どり式という、記念撮影式に入り、馬主・(株)丸沼温泉ホテル(現・(株)丸沼)及び、千明牧場の代表を務める、千明大作さんらにより、撮影を済ませた。

 

第50回目のダービーを終えてミスターシービーは、東京競馬場の出張厩舎に戻り、疲れをいやした。

 

Mr.C.B.「ブルルルルルルルルルル、ブルルルルルルルル!」

 

Mr.C.B.「ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン!」

 

ミスターシービーは、大きい雄たけびでいなないた。

 

Mr.C.B.「プ~~~~~~~~~!」

 

Mr.C.B.「ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン!」

 

ミスターシービーは、大きいフレーメンでいなないたのである。

 

日本ダービーから一夜明けた、美浦トレーニングセンター

 

飼葉桶に餌が与えらていて、モグモグと食んでいた、ミスターシービー

 

松山康久厩舎の放牧番場に、Mr.C.B. ミスターシービーを放牧させていて、自由にさせていたのである。

 

Mr.C.B.「カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ。」

 

Mr.C.B.「ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン!」

 

ミスターシービーは、大きい雄たけびでいなないたのである。

 

Mr.C.B.「ムフ、ムフ、ムフ、ムフ。」

 

Mr.C.B.「ウ~~~~~~~~~~!」

 

Mr.C.B.「ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト。」

ミスターシービーは、大きくて、臭い緑色のうんこ(💩)を落としてやった。

 

ミスターシービーは、北海道・浦河の牧草で育まれた馬である。

 

シービークインの一を名乗った、幼年時代、岡本牧場で大きい蹄を鳴らして、過ごした。

シービークインの一(Mr.C.B. ミスターシービー)「パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ。」

 

シービークインの一(Mr.C.B. ミスターシービー)「ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン!」

Mr.C.B. ミスターシービー幼年時代 シービークインの一)は、雄大な北海道・日高山脈の麓の下で、大きい雄たけびでいななく馬である。

 

Mr.C.B.「ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト。」

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、大きく臭いうんこを落とす馬である。

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、トウショウボーイを父に、シービークインを母に持つ黒鹿毛の馬である。

 

Mr.C.B.「ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン、ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン、ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン!」

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、北海道の浦河の空を想い出しながら、大きい雄たけびでいななく馬である。

 

Mr.C.B.「ムフ、ムフ、ムフ。」

 

Mr.C.B.「ウ~~~~~~~~~~!」

 

Mr.C.B.「ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト。」

 

Mr.C.B. ミスターシービーは、大きい緑色のうんこを出す馬であるのである。

 

夏風邪に悩まされていた、ミスターシービーは、秋の競馬まで休養を取っていたのである。

 

東京競馬が終わって、大きく成長した、ミスターシービーが休養していた、1983年8月、夏競馬の新潟競馬場で行われたサラ系3歳新馬戦【現・メイクデビュー・新潟】で、Mr.C.B. ミスターシービーのライバルの1頭である、鹿毛の馬が新馬勝ちを収め、デビューを果たすのである。

パーソロンを父に、スイートルナを母に持った、皇帝馬・シンボリルドルフがそれであり、野平祐二厩舎という、同じ、美浦トレーニングセンターの厩舎に所属するサラブレッドで、Mr.C.B. ミスターシービーとは生産者と産地が、門別シンボリ牧場(北海道・日高振興曲管内・沙流郡門別町【現・日高町門別地区】と異なる馬で、ゲート試験も受けて合格し、競走馬デビューするに、至ったのである。

Mr.C.B. ミスターシービーには、過去・グランプリ  有馬記念と、天皇賞・春で、2回、皇帝馬・シンボリルドルフと対戦していて、2回とも敗れているほか、カツラギエースとは、皐月賞日本ダービー菊花賞天皇賞・秋で対戦しており、互角の戦いを演じており、現役を引退する1985年(昭和60年)まで通算で15戦8勝の成績を残した記録がある。

 

長い休養を終えて、1983年10月下旬の京都新聞杯(当時・菊花賞トライアルと呼ばれた、競争。)に、駒を進めた、Mr.C.B. ミスターシービーではあるが、ライバルの1頭・カツラギエースに敗れていて、三冠達成に危うしの声が聞かれる中、同年・11月13日に、行われる「菊花賞」(第44回・いずれも、京都競馬場)に19年ぶりの三冠達成に望みを賭けて、調教に入り、もちろん、初の滞在競馬を京都新聞杯以降、最後の戦いとなる、第91回・天皇賞 春まで続くことになるのである。

(7へ。)

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Mr.C.B. ミスターシービー(みすたあしいびいぃ)5

皐月賞を制覇した時の、ミスターシービー

皐月賞を制覇した時の、ミスターシービー 2

1983年(昭和58年)5月・中山競馬場

 

3冠を達成させる、最初の競争・皐月賞を迎えた。

弥生賞を制覇した、Mr.C.B. ミスターシービーにとって、三冠競争の第1関門を迎えた、中山競馬場は、単枠指定馬である、ミスターシービー みすたあしいびいぃを見ようと、多くの競馬ファンで一杯になった。

この日は、雨が降るという、あいにくの天気で、競馬ファンたちは傘をさしては、観戦というありさまでの競争層迎えたのだ。

 

当時、単勝1番人気での出走だった、ミスターシービーは、ジョッキーで、主戦騎手であり、調教師として活躍中の、2006年に胃がんがもとで逝去された、吉永正人さん(鹿児島県出身)が、Mr.C.B. ミスターシービーのデビューの時から、騎乗したのである。

 

皐月賞パドックの時間を迎え、ミスターシービーは、中山競馬場の周回道を闊歩しては、鼻息を合わせていた。

 

Mr.C.B.「ブルルルルルルルル。」

Mr.C.B.「カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ。」

 

とまれの合図とともに、ミスターシービーは、芝の習合場所に集まり、ジョッキーを待った。

 

ミスターシービーは、北海道の浦河で生まれた、顔立ちのよい男馬である。

 

過去・ミスターシービーの戦績を見ると、15戦して、8勝の成績を残した、ミスターシービー

 

この内・3戦が、三冠競争となっており、皐月賞日本ダービー東京優駿大競争)・菊花賞の三冠競争をミスターシービーが制覇したのである。

 

ミスターシービーは、1984年10月28日・東京競馬場で行われた、2000mに短縮された、秋の天皇賞でも、1分59秒3のレコードタイムで優勝し、4冠を達成し、完全復活をアピールした、それが、Mr.C.B. ミスターシービーが勝利した、最後のレースとなったことは、想像もつかなかったことだろう。

 

ジョッキーがまたがり、ミスターシービーは、皐月賞本馬場に入場する。

 

Mr.C.B.「カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポカポ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ。」

千明牧場で生まれた男馬という意味を持つ、Mr.C.B.ミスターシービーも、すでに4歳。

 

2000年12月15日に牡・20歳で逝去するまで、20年間生きた、ミスターシービーの内、3年半は、美保トレーニングセンター・北馬場にいたことになる、すでに逝去された、松山吉三郎さんの息子・康久さんの厩舎に所属し、1985年11月に退厩するまで過ごした、ミスターシービーも、生涯の半分を競走馬として過ごしたことになるのである。

 

皐月賞には、Mr.シービー(Mr.C.B. ミスターシービー)のほかに、メジロモンスニーカツラギエースなどのライバルも、出走していていずれも、三冠をかけた競争の第1関門でもある皐月賞に参戦していました。

 

美しい顔立ちのよい馬・シービークインや、白い稲妻・シービークロスでも、勝利できなかった、皐月賞を、Mr.C.B. ミスターシービーが制覇して、1冠目をとれるのか、期待が高まる雨の中の中山競馬場、いよいよ、スタートの時が切られる時が、来ました。

 

Mr.C.B.「ブルルルルルルルル。」

 

Mr.C.B.「う~~~~~~~~!」

Mr.C.B.「ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト。」

 

ミスターシービーは、大きい緑色のうんこを落としていました。

 

ファンファーレと共に、雨わしも見られる、中山競馬場のメイン競争、皐月賞の、ゲートインも始まって、ミスターシービー(Mr.C.B.)は、ゲートに収まりました。

 

ゲートオープンと同時に、三冠競争の第1関門・皐月賞のスタートが切られたのですが、ミスターシービーは出遅れていて後方からの競馬になっての走りになりましたが、それでも、焦らず走ります。

 

雨だらけで、重番場の中山。

 

グッドルッキングホース(顔立ちのよい馬)でもある、ミスターシービー(Mr.C.B.)にとって過酷な条件を走っています、800mの標識を過ぎています。

 

4コーナーのカーブを過ぎ、直線コースでの勝負になって、ミスターシービー(Mr.C.B.)は先頭に躍り出たのです。

 

2番手には、関西馬として参戦した、メジロモンスニー(父・リマンド 母・ドウヤアマミ・毛色 栗毛)やカツラギエースなどのライバルも来ていました。

 

ミスターシービーは、先頭に躍り出て、そのまま、逃げ切り勝ちを決めるに至りました。

Mr.C.B.「ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン、ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン、ヒヒヒヒヒヒヒヒ~~~~~~~~~~~~ン。」

 

Mr.C.B.「パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ。」

ミスターシービーは、不良番場の中山の重賞競走を制覇したのである。

 

Mr.C.B.「ブルルルルルルルル。」

 

ミスターシービーの優勝で終えた、皐月賞でしたが、1984年(昭和59年)の同競争では、ミスターシービーを倒し、1984年・1985年の年度代表馬に選出された、次世代の三冠馬シンボリルドルフ SYMBOLI RUDOLFが優勝したが、当時・騎手として、同馬に騎乗していた、岡部幸雄さん(群馬県太田市・強戸出身)が、進路を狭くしたとして、騎乗停止の処分を受けるという不祥事も起きたとのことである。

 

ミスターシービーは、検体採取所という、中山競馬場内にある所で、上位馬として、禁止薬物が入っていないか、尿を採取して、検査するのである。

 

この施設は日本中央競馬会から委託を受けて、競走馬理化学研究所が行っており、地方競馬の所属競走馬の尿採取・検査も、地方競馬全国協会からの委託により行っているのである。

いくら、勝利を得た馬でも、尿を採取して、検査の結果・禁止薬物の入った尿が出た場合は、出走停止の処分を受けることになる、1985年(昭和60年)・阪神競馬場で行われた、サンケイ大阪杯【現・産経大阪杯】で、Mr.C.B. ミスターシービーを抑えて優勝した、ステートジャガー Stete Jagerからは、尿検査で、禁止薬物が見つかり、競馬法違反の疑いで、所属厩舎が、京都府警伏見署の捜査を受ける羽目になったことがあるというである。

 

Mr.C.B.「ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ。」

Mr.C.B.「バシャ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッ!」

Mr.C.B.「ジャ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!」

ミスターシービーは、大きいおしっこを出しては検査筒に入れて検査されたのである。

 

三冠達成の第一関門・皐月賞を制覇した、ミスターシービーは、雨の中、中山競馬場での、口どり式と呼ばれる、記念撮影式に臨み、馬主・(株)丸沼温泉ホテル(現・(株)丸沼)をはじめ関係者らで記念撮影をして皐月賞の制覇をたたえたのである。

皐月賞の後・5月29日に東京競馬場で行われた、第50回・日本ダービー東京優駿大競争)を制覇した、現役時代の、Mr.C.B. ミスターシービー

 

ミスターシービーは、中山競馬場の出張厩舎に入り、疲れをいやしたのである。

Mr.C.B.「ヒヒ~ン。」

ミスターシービーは、遠い北海道の空を想い出しながら、大きい雄たけびでいななく馬である。

 

Mr.C.B.「ヒヒ~ン、ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン、ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン!」

 

馬運車で、中山競馬場を後に、ミスターシービーは、所属厩舎・松山康久厩舎のある、美浦トレーニングセンターに戻り、過ごした。

 

美浦トレーニングセンター松山康久厩舎。

 

ミスターシービーは、1985年11月に退厩するまで、3年半過ごした馬である。

 

Mr.C.B.「フア~~~~~~~~!」

 

ミスターシービーは、大きいあくびを鳴らした。

 

ミスターシービーは、北海道の浦河で生まれた、野性の男雄児である。

 

ミスターシービーは、浦河の牧草で育まれた、大きくて逞しい黒鹿毛の男馬である。

 

血統名は、シービークインの一である。

 

ミスターシービーは、浦河の幼年時代を送り、逞しく育った男馬である。

 

翌日・美浦トレーニングセンター 松山康久厩舎。

 

すでに、餌を与え終えて。放牧馬場に出された、ミスターシービー

 

Mr.C.B.「ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン、ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン!」

 

ミスターシービーは、大きい雄たけびでいなないてやりました。

 

Mr.C.B.「う~~~~~~~~!」

 

Mr.C.B.「ボト、ボト、ボト、ボト、ボト。」

 

大きく緑色の臭いうんこを出して、体を整えた、ミスターシービー

 

次走の、第50回を迎えた、東京優駿大競争(日本ダービー)での二冠達成にむけて、休みを取ったのである。

 

ミスターシービーの、日本ダービーへの道は、火曜日からの調教からスタートすることになるのである。

(6へ。)

 

Mr.C.B. ミスターシービー(みすたあしいびいぃ)4

.皐月賞に参戦した、競走馬時代の、Mr.C.B. ミスターシービー

1983年3月の中山競馬場で行われた、報知杯弥生賞(現・報知杯弥生賞ディープインパクト記念)の馬場は雨が降った後か、重馬場での競争となり、前日の金曜日までに仕上げられた、ミスターシービーなどの出走馬たちは、パドックでの周回の後、本馬場に入場する、地下馬場を通って。

このころから、ミスターシービーが、単枠指定馬としての出走をするようになる、このミスターシービー(みすたあしいびいい)の単枠指定馬での出走は、同馬の現役引退まで続くとのことでした。

 

共同通信杯4歳ステークスを制覇して、駒を進めたとはいえ、ミスターシービーには、初の重馬場の挑戦を受けることになる。

スタート地点に立ち、輪乗りを受ける、ミスターシービーも、4歳の男馬になったとはいえ、果たして、弥生賞を制覇することが出来るのか。

Mr.C.B.「ブルルルルルルルル。」

Mr.C.B.「ヒヒ~ン!」

ゲートが開いて、スタートを切った弥生賞ですが、ミスターシービーは出遅れ、後方からの競馬になったようです。

ミスターシービーは、北海道・日高山脈で育った、黒鹿毛の男馬であるのに、なぜ、出遅れての競馬になったのか、想像もつかない、追い込みで走らせたのであるのです。

4コーナーから直線コースをむいて進出してくる、ミスターシービーは、直線コースで大きく伸びて先頭に立った。

Mr.C.B.「パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ。」

 Mr.C.B.「ヒヒ~ン、ヒヒ~ン、ヒヒヒヒヒヒ~ン!」

ミスターシービーは、大きい雄たけびで勝利のいななきを、鳴らした。

 

Mr.C.B.「ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン!」

 

ミスターシービーは、浦河の牧草を食んで大きな男馬である。

 

Mr.C.B.「ヒヒ~ン、ブルルルルルルルル。」

 

検体採取所にミスターシービーは入り、尿を取っては、体を整えたのである。

口どり式という、記念撮影式には、馬主さんらが出ては、ミスターシービーの勝利写真を収めていた。

ミスターシービーは、同じ中山競馬場で行われる競争で、牡馬さん間競争の第1関門・皐月賞に挑戦する。

(5へ。)