BOUQUET FRAGRANCE’ S BLOG 2

競走馬の話題を中心に紹介します。

Mr.C.B. ミスターシービー(みすたあしいびいぃ)5

皐月賞を制覇した時の、ミスターシービー

皐月賞を制覇した時の、ミスターシービー 2

1983年(昭和58年)5月・中山競馬場

 

3冠を達成させる、最初の競争・皐月賞を迎えた。

弥生賞を制覇した、Mr.C.B. ミスターシービーにとって、三冠競争の第1関門を迎えた、中山競馬場は、単枠指定馬である、ミスターシービー みすたあしいびいぃを見ようと、多くの競馬ファンで一杯になった。

この日は、雨が降るという、あいにくの天気で、競馬ファンたちは傘をさしては、観戦というありさまでの競争層迎えたのだ。

 

当時、単勝1番人気での出走だった、ミスターシービーは、ジョッキーで、主戦騎手であり、調教師として活躍中の、2006年に胃がんがもとで逝去された、吉永正人さん(鹿児島県出身)が、Mr.C.B. ミスターシービーのデビューの時から、騎乗したのである。

 

皐月賞パドックの時間を迎え、ミスターシービーは、中山競馬場の周回道を闊歩しては、鼻息を合わせていた。

 

Mr.C.B.「ブルルルルルルルル。」

Mr.C.B.「カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ。」

 

とまれの合図とともに、ミスターシービーは、芝の習合場所に集まり、ジョッキーを待った。

 

ミスターシービーは、北海道の浦河で生まれた、顔立ちのよい男馬である。

 

過去・ミスターシービーの戦績を見ると、15戦して、8勝の成績を残した、ミスターシービー

 

この内・3戦が、三冠競争となっており、皐月賞日本ダービー東京優駿大競争)・菊花賞の三冠競争をミスターシービーが制覇したのである。

 

ミスターシービーは、1984年10月28日・東京競馬場で行われた、2000mに短縮された、秋の天皇賞でも、1分59秒3のレコードタイムで優勝し、4冠を達成し、完全復活をアピールした、それが、Mr.C.B. ミスターシービーが勝利した、最後のレースとなったことは、想像もつかなかったことだろう。

 

ジョッキーがまたがり、ミスターシービーは、皐月賞本馬場に入場する。

 

Mr.C.B.「カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポ、カポカポ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ。」

千明牧場で生まれた男馬という意味を持つ、Mr.C.B.ミスターシービーも、すでに4歳。

 

2000年12月15日に牡・20歳で逝去するまで、20年間生きた、ミスターシービーの内、3年半は、美保トレーニングセンター・北馬場にいたことになる、すでに逝去された、松山吉三郎さんの息子・康久さんの厩舎に所属し、1985年11月に退厩するまで過ごした、ミスターシービーも、生涯の半分を競走馬として過ごしたことになるのである。

 

皐月賞には、Mr.シービー(Mr.C.B. ミスターシービー)のほかに、メジロモンスニーカツラギエースなどのライバルも、出走していていずれも、三冠をかけた競争の第1関門でもある皐月賞に参戦していました。

 

美しい顔立ちのよい馬・シービークインや、白い稲妻・シービークロスでも、勝利できなかった、皐月賞を、Mr.C.B. ミスターシービーが制覇して、1冠目をとれるのか、期待が高まる雨の中の中山競馬場、いよいよ、スタートの時が切られる時が、来ました。

 

Mr.C.B.「ブルルルルルルルル。」

 

Mr.C.B.「う~~~~~~~~!」

Mr.C.B.「ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト、ボト。」

 

ミスターシービーは、大きい緑色のうんこを落としていました。

 

ファンファーレと共に、雨わしも見られる、中山競馬場のメイン競争、皐月賞の、ゲートインも始まって、ミスターシービー(Mr.C.B.)は、ゲートに収まりました。

 

ゲートオープンと同時に、三冠競争の第1関門・皐月賞のスタートが切られたのですが、ミスターシービーは出遅れていて後方からの競馬になっての走りになりましたが、それでも、焦らず走ります。

 

雨だらけで、重番場の中山。

 

グッドルッキングホース(顔立ちのよい馬)でもある、ミスターシービー(Mr.C.B.)にとって過酷な条件を走っています、800mの標識を過ぎています。

 

4コーナーのカーブを過ぎ、直線コースでの勝負になって、ミスターシービー(Mr.C.B.)は先頭に躍り出たのです。

 

2番手には、関西馬として参戦した、メジロモンスニー(父・リマンド 母・ドウヤアマミ・毛色 栗毛)やカツラギエースなどのライバルも来ていました。

 

ミスターシービーは、先頭に躍り出て、そのまま、逃げ切り勝ちを決めるに至りました。

Mr.C.B.「ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン、ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン、ヒヒヒヒヒヒヒヒ~~~~~~~~~~~~ン。」

 

Mr.C.B.「パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ、パカッ。」

ミスターシービーは、不良番場の中山の重賞競走を制覇したのである。

 

Mr.C.B.「ブルルルルルルルル。」

 

ミスターシービーの優勝で終えた、皐月賞でしたが、1984年(昭和59年)の同競争では、ミスターシービーを倒し、1984年・1985年の年度代表馬に選出された、次世代の三冠馬シンボリルドルフ SYMBOLI RUDOLFが優勝したが、当時・騎手として、同馬に騎乗していた、岡部幸雄さん(群馬県太田市・強戸出身)が、進路を狭くしたとして、騎乗停止の処分を受けるという不祥事も起きたとのことである。

 

ミスターシービーは、検体採取所という、中山競馬場内にある所で、上位馬として、禁止薬物が入っていないか、尿を採取して、検査するのである。

 

この施設は日本中央競馬会から委託を受けて、競走馬理化学研究所が行っており、地方競馬の所属競走馬の尿採取・検査も、地方競馬全国協会からの委託により行っているのである。

いくら、勝利を得た馬でも、尿を採取して、検査の結果・禁止薬物の入った尿が出た場合は、出走停止の処分を受けることになる、1985年(昭和60年)・阪神競馬場で行われた、サンケイ大阪杯【現・産経大阪杯】で、Mr.C.B. ミスターシービーを抑えて優勝した、ステートジャガー Stete Jagerからは、尿検査で、禁止薬物が見つかり、競馬法違反の疑いで、所属厩舎が、京都府警伏見署の捜査を受ける羽目になったことがあるというである。

 

Mr.C.B.「ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ、ニョロ。」

Mr.C.B.「バシャ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッ!」

Mr.C.B.「ジャ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!」

ミスターシービーは、大きいおしっこを出しては検査筒に入れて検査されたのである。

 

三冠達成の第一関門・皐月賞を制覇した、ミスターシービーは、雨の中、中山競馬場での、口どり式と呼ばれる、記念撮影式に臨み、馬主・(株)丸沼温泉ホテル(現・(株)丸沼)をはじめ関係者らで記念撮影をして皐月賞の制覇をたたえたのである。

皐月賞の後・5月29日に東京競馬場で行われた、第50回・日本ダービー東京優駿大競争)を制覇した、現役時代の、Mr.C.B. ミスターシービー

 

ミスターシービーは、中山競馬場の出張厩舎に入り、疲れをいやしたのである。

Mr.C.B.「ヒヒ~ン。」

ミスターシービーは、遠い北海道の空を想い出しながら、大きい雄たけびでいななく馬である。

 

Mr.C.B.「ヒヒ~ン、ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン、ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン!」

 

馬運車で、中山競馬場を後に、ミスターシービーは、所属厩舎・松山康久厩舎のある、美浦トレーニングセンターに戻り、過ごした。

 

美浦トレーニングセンター松山康久厩舎。

 

ミスターシービーは、1985年11月に退厩するまで、3年半過ごした馬である。

 

Mr.C.B.「フア~~~~~~~~!」

 

ミスターシービーは、大きいあくびを鳴らした。

 

ミスターシービーは、北海道の浦河で生まれた、野性の男雄児である。

 

ミスターシービーは、浦河の牧草で育まれた、大きくて逞しい黒鹿毛の男馬である。

 

血統名は、シービークインの一である。

 

ミスターシービーは、浦河の幼年時代を送り、逞しく育った男馬である。

 

翌日・美浦トレーニングセンター 松山康久厩舎。

 

すでに、餌を与え終えて。放牧馬場に出された、ミスターシービー

 

Mr.C.B.「ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン、ヒヒ~~~~~~~~~~~~ン!」

 

ミスターシービーは、大きい雄たけびでいなないてやりました。

 

Mr.C.B.「う~~~~~~~~!」

 

Mr.C.B.「ボト、ボト、ボト、ボト、ボト。」

 

大きく緑色の臭いうんこを出して、体を整えた、ミスターシービー

 

次走の、第50回を迎えた、東京優駿大競争(日本ダービー)での二冠達成にむけて、休みを取ったのである。

 

ミスターシービーの、日本ダービーへの道は、火曜日からの調教からスタートすることになるのである。

(6へ。)